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■天文二年(1533)(室町時代)九月武蔵国躑躅ヶ丘(現新宿百人町)に稲荷之大神出現(口碑伝承)。
■天文二年九月二十七日稲荷之大神を神社に奉斎(社伝)。
■明治三十二年(1899)、明治天皇によって大久保つつじの和歌が詠まれる。
■昭和十六年(1941)、大久保つつじの和歌の記念碑が建立。
■平成十四年(2002)二月一日、例祭の鉄砲組百人隊行列が国の無形民俗文化財として登録。

此の地の総社として鎮祭、新宿の発展と共に重要なる地位を与えられ、
又由緒ある歴史と幾多の霊験によって都下でも有数の神社として知られており、
氏子崇敬者によって篤く信仰され、最近ではテレビ・雑誌等によって全国に紹介されております。

【当神社の歴史】
天文2年(1533年室町時代)武蔵の国の地に大窪と呼ばれる一帯が有りました。伊勢神宮の御師(おし)と呼ばれる人の御旅所としてあばら屋が作られ、神宮の御神札を配ったり、旅の途中の休み所として、又御祈願をする所として使われておりました。そこへ段々人が集まるようになり、そのお宿を御宮へと作り直し神社としたのが現在の暦の9月27日であるというのが口碑伝承です。但し、古代の地図の無い頃でしたので、詳しい場所はわかりません。

徳川幕府が入府し、此一帯が鉄炮隊の入植地とされてからが現在の皆中稲荷神社の初めです。
神社と鉄炮隊とは、ある隊士が射撃の修練を行っていたところ、朝早くから夕遅くまで何日も掛けて練習をしても上手くいかず、悩みうつらうつらとしていたところ、狐の鳴声と共に老人とも若者とも見える者が目前に出て、「百人隊の近くに有る御宮だが参拝する者も奉納される物も無く寂しいので、お前が御米、御酒、野菜、果物などを奉り納めれば、その願いを何でもかなえる」との言葉を聞いた気がしましたが、気のせいとほおっておきました。しかし2、3日たちやはり夢に立つので気になり諏訪から戸塚、熊野とさまよい探しましたが目に付かず、ふらふらと歩き疲れた所で、地元のある人から「ある林に鬼火が立ち数頭の狐や親子狐が出入りする怪しげで不思議な所がある」と聞き、ある日夕暮れに鬼火の出ている所を探したところ、へんぴな所で、ふと目の前に人気の無い林の内にうら寂れて屋根の落ちた御社が見つかりました。怪しんでいたところ、狐が2、3匹御社の内から迎えるように出て、挨拶をするように頭を下げ隊員の目の前に木の葉とも枝とも見える板や小石を置いて戻りました。それを袂に入れ家へ帰り寝ていると夢の中で件(くだん)の若者とも老人とも見える者が2匹の狐を伴って出てきて「よく来た、よく見つけた、それが私の宮である」との言葉が有り、その瞬間雷に打たれたかのように目がさめ、それから直ぐにその小石や板を持って射撃所へ行き、打つと百発百中となり、どんな姿勢でも当たるようになりました。それから朝夕に御礼と思い御宮へ頭を下げると願い事が叶い、病気は良くなり、傷は治り、憑き物は落ち、悩みは無くなり苦しみがなくなりました。その内に何人もの隊員がその事に気が付き、その林の内の御宮から百人隊の中地へ御宮を急ごしらえで作りました。

きつけ(狐)何でも当たる、また百発百中を的中と言うので願い事は何でも落としてくれる神社として奉られ、いつしか「みなあたる」神社が皆中神社として、願うと食べ物に困らない、食中り食下しにならない、そしてお米や野菜の出来が良くなる事などから「御食饌神(みけつかみ)」、そしていつも狐がよく出入りする事などから、ある占い師が「これは異なる神様だ」「これは稲なる神様だ」と言ったことから、異なる神→稲なる神として稲の神、稲荷神社と付けその内に「何事も当たる神様」から皆中稲荷神社へと名前が呼ばれるようになったとの事です。そして新しく御宮を建て鎮座した日が、奇しくも9月27日に当たっていたのは偶然だとの事です。